[PR]子育てママさんへ:3年毎に15万円うけとれる保険?


「ゼロ年代の想像力」に対する批判者のためのメモ書き

関連記事:

惑星開発委員会の善良な市民(宇野)氏を批判する

「共同体主義」⇒「個人主義」⇒「決断主義」(⇒「共同体主義」)

惑星開発委員会の宇野常寛氏を批判する 2007


「ゼロ年代の想像力」(宇野常寛、『SFマガジン7月号』)に対する批判がウェブ等にも現われてきたが、その多くがその批判の身振りによって批判対象の主張を正当化してしまうという罠に陥っているように思われる。したがって、それらの批判者に考えるためのヒントを与えるため、いくつかの論点を書き出しておくこととする。以下は、「ゼロ年代の想像力」を読んだ方に対して書いているので、「ゼロ年代の想像力」そのものの解説は省略する。

作品と社会の関係の直接性は、著者の文章中では証明されていない

当然ながら、作品が「セカイ系的である」「決断主義的である」ことと、受け手や社会が「セカイ系的である」「決断主義的である」こととが直接相関するとは限らない。もしそのような直接的な相関性を書き手が前提化するのであれば、そのような直接的な相関性(それこそが「決断主義的」な世界観でもあるのだが)を批判者があらかじめ内面化してしまったということになる。ただし、ここに拘泥すると後の論旨が全て無意味になってしまうので、仮に、そのような直接的な相関性については、ある程度正しいとした上で以下のメモ書きを続けることとする。

 

「決断主義」という言葉は、そもそもネガティブな意味あいを内包している

「宇野常寛は決断主義を正当化している。これは許せん!」というような批判(あるいはそれの裏返しとしての「自分は決断主義的世界観の中で以前から生きてきているよ」という申し開き)を見かけることもあるが、そのような批判や申し開きこそが罠に嵌った想定済みの応答である。というのも、そもそも「決断主義」という言葉自体がネガティブな意味合いで使われてきた文脈を持つものであり、著者には「決断主義なんて言葉を本気で肯定的に使うわけがないじゃないですか?」というアイロニカルな言い逃れが用意されているからである。このネガティブな意味合いとは何かというと、社会学や近代思想史において「決断主義」という言葉がときとしてナチズムの別名として使われてきた、ということである。たとえば、プロテスタンティズムからナチズムが生まれた過程を分析した『ドイツロマン主義とナチズム』(ヘルムート・プレスナー)を参照

 

自身は「決断主義」を全肯定する者ではない、としながらも、著者の政治的身振りは「決断主義的」ではないか?

「人はそもそも差別的に生きるしかないのだ」的な主張(もちろんそれをストレートには言わないようにしているのは、著者のレトリック能力の高さによるものだが)を政治的に正当化しようとし、また自己のイメージ戦略をパワーゲーム的に操ろうとする著者の身振りは、いかに彼が「自身は「決断主義」を全肯定する者ではない」と担保を取ろうとしたとしても、決断主義的な行動化ではないだろうか?

 

あなたが決断主義に憤ることそれ自体が、決断主義を正当化してしまう

決断主義的、パワーゲーム的世界観とは、「人は自分の正しさを政治的なパワーゲームによってしか正当化できない」というものである。である以上は、あなたがたが「決断主義が正当化されるのは許せん!」という憤りを公開することこそが、そのような憤りに基づく政治的パワーゲームを行動化しているという点において、決断主義を正当化してしまうのである。

 

君の宇野常寛への反駁においては、「新しい感性」を支援せよ

そして、上記のような「そのような憤りが出てくることが私の説の正しさを証明しているのだ」という論法は、イデオロギー的な言い方である。

いずれにせよ、ジジェクが指摘したように、近代社会のイデオロギーは、まさにこの歪みを利用して人々の批判精神を麻痺させる。「君は僕を批判するようだけど、そのような批判が出てくることそのものが僕が正しいことを証明しているのだ」というのが、イデオローグの典型的な詐術である。その詐術の論理は、二〇世紀の前半にカフカによって見事に文学化された。 (東浩紀『文学環境論集 journals』p752)

では、カフカに倣ってこう書いておこう。「君の宇野常寛への反駁においては、「新しい感性」を支援せよ」と。坊主憎けりゃ袈裟まで憎い的な感情論に流され、「ゼロ年代の想像力」に反駁するとともに、そこで肯定的に引き合いに出されている諸作品までをも否定してしまうという罠に陥っている人も散見されるようだが、そのような「諸作品までをも否定してしまう」という態度こそが、文化をパワーゲーム的に利用していることの証左になってしまうのである。諸作品は諸作品として、独立に評価しなくてはなるまい。

 

 

(補遺)「プロテスタンティズムからナチズムへ」

『ドイツロマン主義とナチズム』によれば、プロテスタンティズムからナチズムが生まれる過程は、こう説明される。高度資本主義による世俗内権威の崩壊と、プロテスタンティズム的な内面志向が結びついたとき、カトリシズムを背景とする「貴族的教養階層に合わせた啓蒙主義」は衰退し、「世俗については政治家のなすがままにさせる」という無関心性が強められる。しかし、教会なき終末論――この終末論は、ニーチェやマルクスにも見られるものである――は温存され、この教会なき終末論の下に、ナチスが台頭する。つまり、「プロテスタンティズムではヒトラーを止められない」わけだ。

さて、それでは仮に、「貴族的教養階層に合わせた啓蒙主義」が「プロテスタンティズム」を批判するために「ナチズム」を利用するのだとすれば、その行為はいかにして正当化されるのだろうか?


[PR]正社員転職はマイナビ転職:全国の厳選求人と転職活動を支える情報